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本谷有希子『How to burden the girl』―美少女とオタクの現代民話

最近大塚英志の『サブカルチャー文学論』を読んでいた。大塚氏は大学時代民俗学を専攻し、自身の著作や批評にも民俗学的切り口が多く見られる。非常に納得させられるものがあり、氏の論考はかなり好きだ。 

サブカルチャー文学論
サブカルチャー文学論
  • 作者:大塚 英志
  • 発売日: 2004/02/14
  • メディア: 単行本
 

 
私見では本谷有希子氏もまた民俗学的――民話・おとぎ話的要素を多く自作に用い、成功している作家だと感じている。それどころか、彼女は真の現代版民話を書ける数少ない作家であると思っている。先日読んだ『嵐のピクニック』収録の「How to burden the girl」という短編について書いてみたい。 

 

嵐のピクニック (講談社文庫)
嵐のピクニック (講談社文庫)
 

 

How to burden the girl 

元々は魔法少女ものアニメと、そのオタクから発想を得たのだと思う。
父親と実家暮らす34歳のニート男と、その隣の豪邸で父親と5人の弟たちと住んで悪の組織と戦う少女の話。
収録されている『嵐のピクニック』の全編にいえるのだが、この設定も基本シュールだ。しかも皮肉な視点である。風刺といってもいいかもしれない。
少女はピンク髪とエメラルドグリーンの目をしていて、「映画の中でしか見たこともない」長刀を振り回して敵と戦っている。彼らは少女が泣くときに出る「血の涙」を狙っているらしい。黒マント・黒マスク・黒ずくめの見るからに悪の組織は、毎回豪邸に襲撃をかけ、少女と戦い、その血の涙をスポイトで奪ったり、散り散りに追い返されたりする。近所の人間が気づかないのは野球場が近くにあるせいらしい。


男は「おれは女の子のスカートから出ている太ももがいいと思っただけだった。ピンク色の髪の毛も、エメラルドグリーンの目のことも、異常だと言われれば異常だったけども、深くは考えなかった。そもそも女は最初から、自分とは別の生き物だと思っとるんだ。外の世界に興味を持ったことがほとんどなかったから、そういう女もいるのだろうと思った。」と語る。「思っとる」というのが独特だが、この口調は意識的だ。彼女とともに住む子どもたちが殺されていくことに対し「なぜ葬式もせん。なぜ警察が来ん。」と突っ込んで、この文体ならではの味でおかしみを増させている。またそれで男の人となり――呑気というか、間の抜けた感じを表してもいる。

組織の人間が、なんで彼女をどこかに連れて行かないで律儀に一回一回襲ってくるのか、とか、弟をシェルターみたいなところで守るわけにはいかんのか、とか、いろんなことがお約束になっとる、とは思ったけど、俺はそういう細かいことはあんまり気にならんたちだった。

 

 ここで男も指摘するとおり、少女を取り巻く何やかやは「お約束」として展開していく。
その悪の組織によって、5人の男の子は殺されていき、ある夜、残った父親もまた惨殺される。男は女の子があまりにも可哀想だと思い、戦闘の後、死体に囲まれた少女に声をかける。「君を理解してあげられたらどんなにいいか」。
血の涙に泣き濡れる少女は、それを受けて事情を語り始める。男にも読者にも全く予想外の方向の話だ。

少女は父親を異性として愛するあまり母親に嫉妬し、彼女のせいに見せかけた事故で大怪我を負うことで、両親を離婚させ、父親との二人暮らしを手に入れた。彼女は父親を誘惑し、一人の息子をもうける。そこで少女に異変が起きる。天罰のようなものによって、彼女の髪はピンクになり、切ってもすぐに腰まで伸びるようになってしまった。目の色も黒からエメラルドグリーンに変わった。性交渉なしでも妊娠し、地獄のようなつわりや陣痛が続いた。五人いる男の子のうち他の四人はそういうふうにして生まれたという。そして目からは血の涙が流れるようになる。夫と娘に裏切られた母親は、復讐のために悪の組織に入り、少女に襲撃を仕掛けてくるようになった。
身の上を語る内に少女は半狂乱になり、自分の気持ちを理解したいと言うなら、男にも自分自身の父親を誘惑してほしいと迫る。男は逃げ出す。 

 

おれは彼女の手をほどこうとした。彼女は放さなかった。まるで何かもかも打ち明けて、楽になろうとしているみたいに彼女がまだ何か話そうとするので、我慢ができなかった。おれは腕を掴んでいる彼女の腹を思い切り蹴ると、身体をめちゃくちゃに動かして庭に転がりながら飛び降りた。…自分の家のほうに走ったつもりだったのに、そこはいつも悪の組織が去っていく彼女の家の裏の林で、おれはいつまで経ってもそこから逃げ出すことができなかった。…ふと気づくと、土の盛り上がってる箇所が数え切れないほどあって、彼女たちが毎日殺していた組織の人間を埋めた跡らしかった。

 

本谷有希子氏は『異類婚姻譚』で芥川賞を受賞したが、その題名からもわかるとおり、かなり意識的に民話・寓話の舞台装置というか、仕掛けを作中に潜ませる。これが彼女の作品群の何とも言えない魅力に一役買っている。

この辺りは、語り手が正体を現した怪異から逃げだすが知っている場所に出られず、異様な光景が続く、という昔話でよく見る展開だ。けれども効果的だしぞっとさせられる。今まで「悪の組織」との「戦い」という言葉によってかかっていた「幻」が溶け、グロテスクな現実が露呈する。先の少女の自己開示もそうだ。男だってそれは知らなかった。男はそもそも見積もりがあまりに甘く、考えが浅はかなのだ。

民話でいうところの、狸に化かされる猟師といったポジションだ。アニメオタクのテンプレートな印象をうまく使って民話風に仕立てているといえる。

少女の身の上に起こったことも民話的だ。禁忌を犯した罰によって、異形のものに姿を変えられ、悲痛な運命が待っている。その「罰」が「アニメキャラ(っぽい存在)になること」なのが面白い。石に変えられたり怪物に変えられるのではない。彼女のそれからは語られない。語り手である男が彼女の元を逃げ去った時点で終了する。そこもまた想像の余地が残り、読者に強い印象を与える一因となっている。
幕切れもまた民話的だ。命からがら逃げ帰った男は、「次の昼、食事を運んできた親父を見るなり、俺は昨日の晩のことを思い出して、親父の作ったものを食べる気にもならんかった。喋る気もせん。」これで終わりだ。この落語のようなあっけない落ちの付け方にもまた面白みがある。滑稽さと同時に伝統の裏打ちを感じさせるのだ。


『嵐のピクニック』の他収録作品をはじめ、本谷氏の短編が奇抜なだけではなく、説得性に富み、紛れもない現代文学でありながら昔話の苦味、奥深さを感じさせるのは、このあたりが理由なのだろう。私が本谷氏が真の意味で現代版民話を書ける作家だと思うのも、そこからである。